サヤ日記

わたしの日常の、なんでもないふつうのこと。でもそれは、誰かにとっての非日常。私が目を向けた、ありがとうの気持ちを分かち合えたら。

西郷どんとライン

ブログ100日への道。41日目。

 

今日はコミュニケーションとかの話。

 

もし、幕末時代にラインがあったら

大久保利通西郷隆盛は仲違いすることなどなかったのではないか。

もっとこまめに連絡を取り合って、

いやそれは違うんだ。誤解だ。

本心はこう思っている。

・・・なんて、お互いに写真やスタンプも駆使して、

円滑なコミュニケーションの上で、判断ができたのではないか。

 

なーんて、思ったりする。

(歴史は全く詳しくないので、え、それはさ、、とか言わずにスルーしてね)

 

でも、同時に、

ラインなんてあったら、今の日本はなかったかも知れない。

事実、「今の」日本ではない日本はあったかも知れないし、

歴史は当然違っているはずだけど。

国自体がなかったのではないかなぁ。

それほど力を奪われてしまって、どこかの国に併合されていたのではないか。

 

なんでそんなことを思ったかというと、、

昨日、友人たちと四人で、

オンラインでの円坐をしてみたのだ。

 

円坐というのは、

何も目的も持たず、話し合うテーマも持たず、

ただ、円になって座る。

そこで、湧き上がってきた思いや話したいことがあれば、

言葉を出していく場。

守人という役割の人が一人いて、

タイムキープの役割と、発された言葉を辿る人。

それ以外は他の参加者と同じ。

 

こうして書きながらも、円坐がオンラインで成り立つ性質のものではない

と思うのだけれど、

今回守人をやってくれた友人が、実験的にやってみたい、とのことで

未知なる世界にだいぶしてみた。

 

結果、なかなか面白い時間を過ごした。

 

はじめ、そわそわして参加者の一人は、自分の身体を触り始めた。

私も、浮遊したような心地、緊張感があった。

守人は、脇汗が出てくる。

 

なんだかそれぞれに落ち着かないような、ここにあらず、な様子ではじまった。

 

話していくうちに、だんだんとその浮遊感の正体が見えてきた。

 

私たちは、どこで出逢っているのか?

私たちは、どこに、言葉をはなっているのか?

 

そんな問いが出てきた。

 

円坐、というのは円になって座っている。

その円の真ん中に言葉を置いていくような感じ。

そこから空間が広がって共有しているような感じがある。

 

それが、オンラインだと捉えられないのだ。

感じられなかったのだ。

身体を触っていた参加者が、ふいに「NASA!」と言いだすくらい、

宇宙を漂っている心許なさを感じる。

 

けれど、そんな話を続けるうちに、

だんだんと身体に意識が戻ってくるような気がした。

 

実際に参加者のいる場所は、

名古屋に二人。東京に二人。

この円坐は、大きな大きな円。

とすると、真ん中は、静岡、富士山のあたりかなぁ。

そんな風に我々が囲んでいる円の感覚を

肌感覚で捉えられたとき、やっと意識が戻ってきたのだ。

これまでの数十分は、私たちそれぞれの意識は、

空間を浮遊して、リサーチしにいっていたかのように思えた。

この円の大きさ、広さ、どこで出逢うことができるのか、

と、リサーチをし、富士山あたりでやっと出逢うことができた。

まるで、精子卵子目掛けて泳いでいくかのように。

 

 

私たちの意識は、普段、

本当は、こうして、肌感覚や五感をつかって、

空間を縦横無尽に動き回りながらいろいろな情報や感情やあらゆるものを

サーチして、選び取っているのではないだろうか。

あまりに自覚がないので、

突然、オンラインで、その空間認識の範囲が急に広がった時、

戸惑いを覚えた。

 

テクノロジーが発達して、スマホやらパソコンやらで

あっという間に、空間を飛び越えて繋がれる便利さを

今では当たり前のように日常使っている。

私たちの身体感覚や精神に、大きな影響を与えていることに無自覚に。

 

インターネットや電話や、新幹線や飛行機が、なかった時代。

あっという間に、時間も場所も飛び越えて行けるツールがなかった時代。

人間の身体感覚や精神は、

現代の私たちが想像する以上に鋭敏で、空間への意識も敏感で、

今ならばサイキックと呼ばれるような能力が

当たり前に備わっていて使いこなしていたのではないかなぁ。

 

そんな妄想が沸き起こってきたのでした。

 

冒頭で書いた幕末の志士たちの驚くべき偉業は、

(幕末に限らずですが)

だから、インターネットが普及していたら錆び付いてしまうかもしれない、

研ぎ澄まされた鋭敏な意識と感覚によって

為された部分もあったのではなかろうか、と。

 

まあ、私の妄想的ファンタジーな想像ではありますが。

 

 

ファンタジーを続けると、、、

ジョンレノンの歌「imagin」で歌われる

国境のない世界は、私たちの空間認識の広がりによって

具現化されていくんじゃないかなぁ・・・

 

同じ空間で座っている円坐。

というその「同じ空間」が、一つ屋根の下のひとつのお部屋から、

東京と名古屋を直径とする円に広がった。

それが、日本全体、アジア全体、地球全体、

というように「同じ空間」への認識が広がっていくと、

国境の意味がなくなっていく。少なくとも意識の上では。

 

まあ、なんだかほんとに妄想的な偏った想像なのだけど、

テクノロジーがどんどんと進んでいくことと同時に、

もっと自覚的に自分たちの身体感覚や五感にたいして、

与えられている影響を自覚して受け入れながら、

鋭敏さを取り戻していくあらゆる努力をしていく必要が

あるかも知れない、と思いました。

 

そのやり方は、本当に人それぞれ。

実際に肉体を動かして、文字通り国境を飛び越えながら活動することで、

「同じ空間」を広げていくひと。

それができないけれども、してみたい、という渇望によって

どんどんとテクノロジーの発達に関わるひと。

宇宙に行って地球を俯瞰することでなにかメッセージを発するひと。

日々の暮らしを丁寧に行うことで、あらゆる事柄に通じる本質を感じるようになるひと。

いろんなひとがこの地球には、生きていて、

協働している。