サヤ日記

わたしの日常の、なんでもないふつうのこと。でもそれは、誰かにとっての非日常。私が目を向けた、ありがとうの気持ちを分かち合えたら。

耳を傾けよう

ブログ100日への道。45日目。

 

 

最近は、よくYouTubeで動画を見る機会が多くなった。

個人でもインスタライブやFacebookライブ配信

YouTubeライブをするひとが急増中ですね。

そして、最近のコロナウィルスの影響によって

さらに、オンラインでのいろいろが増えている。

 

そんな中、

友人が実験的に開催したオンラインでの円坐に参加しました。

makimorimori.hatenablog.com

 

オンラインでの浮遊感を感じてなんだか居心地の悪さを感じた。

顔が見えているのに、見えない。

目の前にいるのに、いない。

目が合わない。

そういう落ち着きのなさもあったのだ。

 

今度は、音声だけで円坐をやってみたい、という主催の友人の提案。

なるほど。それは面白そうだ、と

先ほどまで、名古屋の二人と東京の二人で声の円坐をやっていた。

 

するとどうだろう。

なんか妙に落ち着く。

とても安心する。

出会っている感覚もある。

 

参加メンバーの一人が、

修学旅行で電気を暗くしたあと、

お布団の中でおしゃべりしているみたい、と言った。

 

まさにそんな感じのワクワク感さえあった。

 

会話しながら、お互いの声色の違いから話が盛り上がったり。

 

私たちは、声からなにを感じ取るのだろう。

 

www.excite.co.jp

 

声とは、いのちそのもの、生きている証。

 

いのちを感じている。

今日、読んでいた本にはこのようなことが書いてあった。

 

 いのちの語源は、

 イは息、チは勢力。

 すなわち息の勢いが原義。

 いのちとは、目に見えない「根源の力」としての「息の勢い」。

   『やまと言葉で哲学する』(竹内整一著)

 

声は息だ。

息に乗せて、思いを届ける。それが声。

私たちは、互いの声を聞くことで、

相手のいのちを確認し、敬意を表しているのではないか。

(それが怒りの表現だとしても、聞き取ることはいのちへの敬意なのではないか)

 

声を聞いて、

相手の世界観を感じ取ったり、微妙な変化を嗅ぎ分けたりする。

 

ビデオ通話でも声は聞ける。

顔色まで窺い知ることができるのだから、

音声だけよりも生で会うのに近い感覚を得られるのではないか、

とも思うのだけれど、実際には、ビデオ通話は

目の前に見えているのに、目の前にいないという事実をより深く知らされ、

そのことの寂しさがより際立ってしまった。

 

さっきも、ずっと声だけを聞いていて、

そのあとにビデオ通話に切り替えてみたのだけれど、

画面越しにお互いの顔がみえるのに、やっぱり落ち着かない気持ちが湧いてきた。

いろんな情報が急にたくさん入ってきて、

声にも集中できなくなってしまった。

声色にも、もしかしたら注意が向きにくくなってしまうのかもしれない。

息の勢いを感じ取るセンサーが、

他の情報や感情にも分散されてしまうようで、

妙に変な感じがした。

 

意識をしなければ、ビデオ通話は、ただただ便利で

音声だけとの違いについて考えることなどないかもしれない。

音声だけのライブ配信をしている人はほとんど見かけないし。

文字だけの発信から一気に、動画へと多くの人が一足飛びにいく。

 

電話。

ここに、今だからこそ必要な豊かさを

受け取れる扉があるのかもしれません。

 

会えないのならせめて、

文字だけよりもどんどん電話をしてみよう。

ビデオ通話で会話をする前に、

声だけでのやりとりに、「耳を傾けて」みよう。